20代に日本を飛び出し、南北太平洋、インド洋の島々を転々とし、30代に日本に戻り写真の仕事に従事。40代にて再び日本を飛び出し現在に至る。
まあ〜根っからの、のほほん者です。
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6月26日に日本でマスコミ向け試写会が行われる予定です。
その後、日本各地で上映予定です。
2月に声がかかり、4月いっぱいまで撮影のお手伝いをさせて頂いた作品です。
ネットでググッて見てください。皆さんのお近くの会場でご覧頂ける事を祈っております。
あらすじ。。。は、、、→→→→
オーストラリア ラグビー ナショナルチーム「ワラビーズ」。
そのチームに、70年前、一人の日系人がいた。「ブロウ」という愛称で呼ばれたそのラガー、W.P.J.井手、1938-39年にオーストラリア、ナショナルチームのメンバーとして活躍した。
『君はノーサイドの笛を聞いたか』は、そのブロウの人生を辿るものである。
ブロウは、日本人の父秀一郎とオーストラリア人の母クララの四男として、1914年、オーストラリア・シドニーで生まれた。秀一郎は、佐賀県の出身。葉隠武士と呼ばれた鍋島藩の武士の末裔である。1890年、秀一郎はオーストラリアに渡り、絹の貿易で成功し、ブロウが生まれた頃は、ノース・シドニーのノースブリッジ地区に豪邸を建て、町の名士として知られていた。
兄たちの影響でラグビーを始めたブロウはたちまち夢中になり、高校に入学するとたちまち頭角を現し、卒業後、地元の名門ラグビークラブ「ノーザン サバーブス ラグビークラブ」に入り、ファースト グレードとして活躍した。
だが、オーストラリア、ナショナルチーム「ワラビーズ」の壁は厚く、所属クラブを移籍するなどの苦労の末、やっとメンバーに選ばれ、1938年のニュージーランド、ナショナルチーム「オールブラックス」戦の第2戦と第3戦に出場した。その後、1939年、ブロウはイギリス遠征のチームにも選ばれる。
しかし、ブロウたちがイギリスに到着したその日に第二次世界大戦が勃発し、ブロウたちは一戦もすることなく帰国し、1940年、ブロウは陸軍に志願する。間もなく、ブロウの部隊はマラヤ(現マレーシア)出発することになった。出発の前夜、ブロウは、恋人ヘザー・レイノルズと婚約した。
1941年、日本軍の攻撃が始まると、ブロウは父の祖国と戦うという複雑な立場に置かれた。その後、シンガポールで日本軍の捕虜となり、タイ―ビルマ間を結ぶ「泰緬鉄道」建設の強制労働に従事させられた。1944年9月、ブロウたち捕虜は輸送船「楽洋丸」に乗せられ、シンガポールから日本へ向った。フィリピン沖でアメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受けて船は沈み、ブロウたちは海に放り出された。誰もが我先に救命ボートに乗り込もうとする中で、ブロウは救命ボートに乗ることを、仲間に譲って死んだと言われる。
誰よりも平和を願い、もう一度、愛する恋人に会いたがったブロウ、過酷な強制労働を生き抜いた、ブロウはなぜ死を選んだのだろうか?2つの祖国の狭間で何を思って生きたのか。残された恋人、両親、ラグビー仲間たちは、ブロウをどう思っていたのだろうか?
この作品は、時代に翻弄された日系オーストラリア人ラガー・ブロウを訪ねる中から、戦争、平和、家族、ラグビー、日本とアジア・オーストラリアの関係、そして、ブロウ自身の生き様を伝え愛と平和をテーマに描きます。